特化戦略と、音楽との出会い

 
私の話をさせてください
 
しばしば、“人よりちょっと変わっている”と言われ、
ジャズ好きで、最近は少し涙もろくなった社長です。
「鋼製階段の専門メーカー」になるまでに、
いろんな悩みや葛藤がありました。
そしてその都度、いろんなご縁に助けられてきた。
そしてその都度、自分で決めた方向を確信できました。
そのプロセスを伝えたくて…もしよかったら、
聞いてやってください。
 

 
石垣勝康プロフィール
 
INDEX
 
 
 
子どもの頃のこと
 
父は、私が5歳のときに独立して、鉱山や営林署で使う機械の製作・修理をする鉄工所を始めました。1955年のことです。当時は道路も舗装されていない田舎で、石ころだらけのじゃり道や田んぼのあぜ道が遊び場でした。いつも生傷が絶えない子ども時代でした。
 
父が独立する前に勤めていた会社は日立製作所です。水力発電所で水車のプロペラを溶接する仕事に従事し、世界を飛び回っていました。プロペラはステンレス製で形状が複雑であるため、溶接には非常に高度な技術が必要です。父の元で溶接をしていた社員たちもきれいな溶接をしていたな、と記憶しています
 
 

 
サックス写真
サックスとの出会い
私の音楽との出会いは、小学5年生のころです。音楽の先生が美人過ぎたため、大嫌いな合唱部に入部してしまった。卒業までの2年間はほんとに苦しかったです。
中学校に進学してからは吹奏楽部に入部してトランペットを吹きました。練習がきびしくても、つらいとは感じませんでした。なぜなら歌わなくてもよかったから。音楽も勉強も楽しいと感じていました。
高校でも吹奏楽部に入部しましたが、当時はトランペッターの競争率が高かったので、私はサックスに回されてしまったのです。これが私とサックスとの出会いです。
 
 
 

 
ジャズの世界へ
 
大学では「カウント・ベイシー・オーケストラ」に夢中になりました。練習に熱中した私は、このクラブで「コンサートマスター」 略して「コンマス」として活動をするようになりました。コンマスと言ったら、バンドのクオリティを左右する重要なポジションです。この大役を担ったことで、私のジャズライフは頂点へと向かっていきます。
 
 
 

 
石垣社長
“約束の帰郷
 
ふるさとの父から呼び戻されたのは、ジャズの楽しさを謳歌している、そんなさなかでした。しかし、私には少しの迷いもありませんでした。なぜならそれは、父との「約束」だったから。大学を卒後してすぐ帰郷し、父の鉄工所にまっすぐ“入社”しました。
 
入社してすぐ取り組んだのは、「原寸」と呼ばれる作業です。「原寸」とは、縮尺1/1、つまり実物大の図面を作る仕事のこと。難しくて慣れなくて、とても苦労しました。そんな私に惜しみなく指導してくれたのは、父でも会社の人でもなく、同業他社の職人さんでした。私がどうにかこうにか資格を取り、一人前になれたのはこうした周囲の人々のおかげであり、父がそのような信頼関係を作ってくれていたからだったと思います。
 
 
 

 
石垣社長
仕事がない…!
 

父が亡くなったのは、バブル期も終わりに近づいた頃です。早く亡くなってしまったのは、仕事とお酒で体を傷めつけてしまっていたからかな、とも思います。

父の跡を継いで、私が代表取締役に就任したのは1990年。その翌年からバブルの崩壊が始まりました。そして、本当に、仕事がなくなったんです。

 

 

 


 
石垣社長
“階段特化戦略”の断行
 
(みなと同じことをしていても生き残っていけない
暗中模索の中で私は、ある事例を知りました。それは、レーザー加工機で階段を製作するというものです。レーザー加工機を導入し、「CAD+レーザー」で「階段特化」をやろう!そう決断したのです。
 
そして私は、「階段製作専門メーカー」として路線変更することを内外に宣言するため、奔走しました。
 
 

 
石垣社長
「階段を作らせてください」
 
まず、私は朝礼で社員に向かって、階段特化路線を敷くことを宣言しました。次に、当社は鉄骨系の組合に入っておりますが、県の組合員企業の皆さんに宣言をしました。「本体はやりませんので、階段を作らせてください」と。そうすることで、同業者との競争ではなく、“協業”することが可能になります。
 
はずかしながら、それまで私は営業というものをしたことがありませんでしたが、全構連の東北の会員企業様すべてを訪問し、階段の仕事を頼んで回りました。
 
 
こうして、石垣鐵工の階段特化路線がスタートしたのです。業績はこれを機にじわじわと回復していくことになります。1994年、バブルがはじけた翌年のこと。“新生 石垣鐵工の誕生です。
 

 
石垣社長
2度目の危機と、
“活力朝礼”
 
バブル崩壊に続き、2度目の危機が訪れたのは、2008年。リーマンショックです。円高による影響だけでなく、政権交代で行われた“仕分け”によって、ダム建設など多くの公共事業が中止となり、製造業は大きな打撃を受けました。そして2011年、追い打ちをかけるように、東日本大震災が起きたのです。
再び、仕事がなくなりました。
 
しかも、3年前に工場を新築していたので、債務超過2年で1億8千万。社員の表情も暗くなっていくのが感じられました。そのとき挑戦したのが、「倫理法人会」の「朝礼コンクール」です。職場に、元気と笑顔と声がけを取り戻すきっかけになる、そう思ったからです。以来毎年コンクールへの参戦を果たし上位入賞の常連になるまでに力をつけています。
 
また、経営者として自分と会社のことを見つめ直すこともしました。何のために、どうなりたくて、働くのか。一生涯、このことを目標にして生きていくのだ、という目的はあるか。2009年、ISOの取得を機に、経営理念も明文化しました。
こうしてみると、試練が私と会社の成長を促してくれたように思います。どん底に落ちてはじめて人は覚悟を決めて行動を起こすのではないでしょうか。
 
 

 
石垣社長
初心に還る。
これからの石垣鐵工
 
創業60年を超え、20名程度だった社員も今では63名を数えるまでになりました。危機が訪れるたびに、悩みもがきながらも逃げずに決断をしてきました。社員が本当によくついてきてくれたな、とありがたい思いでいっぱいです。
 
 
そして今また、バブル崩壊やリーマンショックとは違う、静かな危機を感じています。それは、「大切なことを忘れてはいまいか」ということ。私は自身にもう一度問いました。社業が少しずつ順調になってきて、苦しかったときの思いが希薄になっていないか。たとえば、効率の悪い美しい階段を仕上げることよりも、効率の善し悪しにばかり気をとられ始めてはいないか。
 
 
石垣鐵工は、存続の危機が迫ったとき、階段の専門メーカーとして生まれ変わることを決意しました。あのとき、「階段を作らせてください」1社1社回ったとき、注文をくださった最初のお客様を、もう一度大切にしよう、私はそのように考え至りました。
これからの石垣鐵工は、初心に還り、“大切なものは何か”をもう一度見つめ直すことで、またひとつ成長することをめざしています。
 
ライフワークのサックスを楽しみながら、大切な社員とお客様を守り、よい仕事をすることの喜びと誇りに満ちた人生を歩みたい。そんな人生を、ひとり一人の社員と共に実現したい。それが私の目標です。
 
 

 
石垣鐵工株式会社
〒018-5751
秋田県大館市二井田字
前田野5番地2

TEL.0186-59-8102
FAX.0186-59-8103

●各種階段
 (らせん、デザイン、階段室鉄骨)の製造、取付
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